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ユダヤ教 ━ ユダヤ人とユダヤ教

ユダヤ人とは誰か?

「ユダヤ人=ユダヤ教徒」なのか?

ユダヤ人の定義

アシュケナジーとスファラディー

アシュケナジーとカザール人

割礼

成人「バルミツバ」

結婚

離婚



★『やさしいユダヤ教Q&A』(ミルトス)もご参照ください★

■ユダヤ人とは誰か?

 

 よく、ユダヤ人とは誰かと問われます。簡単な質問のようで、それほど単純ではありません。実際にいろいろの定義が挙げられたりします。現在、一番確かなのは、ユダヤ人の子供がユダヤ人ということです。

 それでは、ユダヤ人とは血縁集団かというと、必ずしもそうでもありません。誰でもユダヤ教に改宗することによって、ユダヤ人の一員になる道があるからです。

 ユダヤ人の国と言われるイスラエルでも、ユダヤ人の認知が、時には社会問題になります。非ユダヤ人の婦人がユダヤ教に改宗した場合も、イスラエルではいわゆる正統派ユダヤ教(オーソドックス)以外はユダヤ教と認められていませんから、保守派ないしは改革派のラビが認めた改宗ユダヤ教徒は、ユダヤ人ではないわけです。国外で改宗した改革派ユダヤ教徒がイスラエルの裁判所で、ユダヤ人と認められたというので、ビッグ・ニュースになったこともあります。

 日本人の場合、日本の国籍をもつ人のことで、「日本人とは誰か」はあまり議論の余地はありません。アメリカ人はアメリカの市民権を持った人のことですし、その他の多くの国民の場合もそうです。ところが、ユダヤ人と言われる人々は現在世界の隅々に住んでいますが、当然1つの国に属していたわけでありません。長い間、ドイツに住み、あるいは東欧に、またエジプトにと言って、世界のあちらこちらの国に属し暮らしています。ですから、国籍が同じ人々ではありません。

 イスラエル国家が誕生してから、ユダヤ人なら誰でもイスラエル国に帰還すれば、その人にはイスラエルの市民権が与えられます。しかし、世界のすべてのユダヤ人が、イスラエル国民であるわけではありません。アメリカ人のまま、あるいはイギリス国籍のみのユダヤ人も多くいます。(イスラエル以外に住むユダヤ人は、ディアスポラのユダヤ人と呼ばれます)

 また、2000年前のユダヤ国家の子孫というように、現実的に家系をさかのぼれるわけでもありません。また、それがユダヤ人の条件でもありません。ユダヤ教に正式に改宗すれば、その人はユダヤ人となることができるからです。


■「ユダヤ人=ユダヤ教徒」なのか?

 

 この定義は、何世代も前ならば、あるいは適切だったかも知れません。しかし、現在ユダヤ人であってもユダヤ教を信奉しないと公言する人もいますし、無神論者だと平気で言う人もいます。

 歴史的には、ユダヤ教がユダヤ人のアイデンティティー(自覚、意識)を保ってきたのは事実でしょう。それでも、真面目な学者の中にも、ユダヤ人を宗教的な集団だと定義するのに反対する意見を唱える人もいます。特に近代以後においてそうです。なぜなら、ユダヤ教を捨てた場合、つまりその戒律を守らない場合に、(いま多くのユダヤ人がそのとおり)ユダヤ人とは認めないとなると、大問題となります。

 レンズ磨きの哲学者スピノザは、その独自な思想のために、ユダヤ教の権威から破門されました。しかし、彼がユダヤ人でなくなったとは言いません。19世紀ヨーロッパの啓蒙的なユダヤ人で、キリスト教に改宗する人々が出ましたが、彼らもユダヤ人と見られていました。


■ユダヤ人の定義

 

 その人が何を信じるか、どんな行ないをするかということは、ユダヤ人の定義には無関係だということをまず再確認しておきます。ユダヤ人に共通しているのは、「ユダヤ人である」という意識をもつ点です。つまり自分がユダヤ的伝統の過去と結びついていることを意識していることです。「ユダヤ人であること(Jewishness)」は、それほど容易に説明できない概念であることを理解して下さい。

 それでは、何がなんだかわけが分からなくなります。現在もっとも一般的な定義を紹介しますと、ユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた人、またはユダヤ教に改宗を認められた人」というのが、イスラエルの帰還法(ユダヤ人と認め、国籍を与える法律)に規定されたユダヤ人です。

 父親がユダヤ人でも母親が非ユダヤ人の場合、子供はユダヤ人ではないと、ユダヤ法は定めています。母親がユダヤ人なら、確実にユダヤ人の血は受け継がれていくわけです。

 父親ではなぜだめか。子供の父親がだれかは母親以外は本当に分からないから、というのがユダヤ教の考え方です。また、ユダヤ教は家庭教育を重視しますが、母親がユダヤ教を子供に伝える役目をになっているからでしょう。

 イスラエルでは、ユダヤ人の認知が、時には社会問題になります。母親がユダヤ人でないので、イスラエル人であっても、ユダヤ人と認められない人が出てくるわけです。


■アシュケナジーとスファラディー

 

 イスラエルに行きますと、よくアシュケナジーかスファラディーかの区別があることを聞きます。これは、ユダヤ人が祖国から離散して世界中に住むようになって以来、その祖先の出身地別に分類したときの区別です。

 アシュケナジーとは「ドイツ」という意味の古いヘブライ語で、ドイツや東欧に住むユダヤ人の子孫を指します。彼らの祖先は、紀元1世紀にまで遡ります。当時のローマ帝国拡大と共にヨーロッパ辺境のライン川沿いまで移住していったことが知られています。ドイツやフランスにも居住区をつくりました。経済的には富み栄えたようです。

 アシュケナジーが歴史に登場してくるのは、中世以後です。キリスト教徒の迫害を受け、居住地を東欧・ロシアへと追放されたり各地に移動を余儀なくされましたが、逆にユダヤ人の独自性が保たれて、世界のユダヤ人の中でも優れた文化を発展させ、やがて近代に指導的地位を得ていきました。アメリカに渡ったユダヤ人の多くがアシュケナジーでした。また、イスラエル建国につながるシオニズム運動も、アシュケナジーが大きく担い推進させました。

 アシュケナジー・ユダヤ人は、イーディッシュ語という独特の言語を話しました。イーディッシュ語は中世ドイツ語とヘブライ語の混じり合ってできた言葉です。

 スファラディーとは「スペイン」を指す言葉です。イスラム文化が栄えた時代に、その支配地のユダヤ人も豊かな文化や経済の花を咲かせました。もちろん、イスラム教文明の中で世俗的にも大いに活躍しました。当時、地球上の最も進んだ文明がイスラム圏にあったのは、事実ですね。

 やがて、キリスト教徒にスペインが占領され、1492年、キリスト教への改宗を拒否したユダヤ人は追放されました。地中海沿岸に散らされ、そして衰退していくイスラム文化圏の中で一緒に歴史の陰に隠れてしまったのが、スペインのユダヤ人の子孫、スファラディーでした。彼らはイスラム教徒とは、比較的平和共存して暮らしていました。

 スファラディー・ユダヤ人は、スペイン語とヘブライ語の混成語であるラディーノ語をつかっていました。今はすたれています。

 中世キリスト教とユダヤ教との論争をテーマにした『バルセロナの宮廷にて』(ミルトス)は、難しい内容を戯曲風にわかりやすく紹介していますので、当時の雰囲気がよく伝わってきます。


■アシュケナジーとカザール人

 

 宇野正美という人物が、自著の本で「アシュケナジーは本当のユダヤ人ではなく、カザール人というユダヤ教改宗者の子孫である」ということを主張しています。

 しかし、彼の主張がいかに誤りであるか、ここでの説明を見ていただければお分かりだと思います。少しユダヤ人の歴史の知識があれば、いかに虚偽で事実を曲げているかすぐ分かりますが、何も知らない日本人にはもっともらしく聞こえます。念のため、間違いを正しましょう。(氏の本にはその他たくさん誤謬がありますが、ここでは省略します。)

 第1に、アシュケナジーが古代ユダヤ人の流れを汲むことは、歴史的事実です。例えば、ドイツにローマ帝国時代のユダヤ人居住区(例えば、コロニア、つまり現在のケルン)があったことなど、ことさら無視しています。古代以来、ヨーロッパの諸都市にユダヤ人が居住していたことは言うまでもありません。

 第2に、カザール人とは、カスピ海とヴォルガ川沿いにあった国で、8世紀頃その王がユダヤ教に改宗したと伝えられる人々です。その国が10世紀に滅んだのち子孫がどうなったかは歴史に照らして検証される必要がありますが、ユダヤ人は改宗者であってもユダヤ人なのです。本当のユダヤ人でないとは、その点からも言えません。

 シュロモー・ザンド・テルアビブ大学教授が著した『ユダヤ人はいつ、どうやって発明されたか』という書(ヘブライ語原著、日本語訳はなし)も、このカザール人を論拠としたものです。これに関しては、隔月刊誌「みるとす」2008年8月号にてイスラエル人識者が論破しています。


■割礼

 

 割礼とは、男子の性器の包皮を切り取ることですが、旧約聖書に男児は生れて8日目に割礼を受けなければならないと定められています。割礼というヘブライ語はブリットと言いますが、「契約」という意味です。

 これは神とアブラハム(ユダヤ人の父祖)との契約を指していて、契約を守る印として割礼を命じられました。ユダヤ民族の子々孫々これを守れというわけです。割礼が随分古い慣習であることは確実です。イエス・キリストもユダヤ人として8日目に割礼を受けました。

 どうしてこの儀式が始まったのか。聖書の説明以外に、昔からいろいろな理由が述べられてきました。衛生上の理由からとか、禁欲に効果ありとか、様々に言われます。しかし、神とイスラエルとの契約という宗教上の理由が第一義でしょう。

 紀元前2世紀の有名なマカバイの反乱は、支配者のギリシア人がユダヤ人に割礼を禁じたことなどから起こりました。

 割礼の儀式は家族の大いなる祝いの日です。そしてこれこそユダヤ人の印ですから、この話題なしにはユダヤ教の紹介は始まりません。

 割礼を施すのはもともとは父親の義務で、理想的にはアブラハムがイサクに施したように、父親がするのが理想でしょう。しかし、これは外科手術には違いがありませんから、普通の父親が簡単にできることではありません。一般に、割礼に精通した専門家(モヘールという)が父親の代理として施します。モヘールは手術に慣れ、子供の安全に気を配り、割礼の際の祝福の仕方もよく知っています。現代では病院で医者の手に委ねることもあるそうです。

 割礼式には父親とモヘールの他に、サンデック(名付け親)という役の人が出席します。ギリシア語に由来するこの語は、「子供と共に」の意ですが、ゴッドファーザー(名付け親)とも理解されています。モヘールの助手として、子供を膝に抱き抱えます。「バアル・ブリット」とも呼ばれ、式では大事な人です。

 式の最中、名付け親の隣に空の椅子が置かれています。これはエリヤの椅子と呼ばれます。エリヤという昔の預言者が割礼式にやって来て、危険から男児を守ってくれるというのが、ユダヤ人の言い伝えです。人の座らない椅子は、エリヤの象徴です。

 あるオリエント系のシナゴーグ(会堂)では、エリヤの椅子が会堂に置かれていたり、あるいは(間違って人が座らないために)高い所につってあったりします。

 このエリヤは旧約聖書に出てくる偉大な預言者の1人ですが、新約聖書にも当時の人々のエリヤの信仰が書き残されています。それによると、イエス時代のユダヤの民衆が、「メシア(救い主)の到来前にエリヤが再来する」と預言した、マラキ書という預言書そのままに信じていたことが分かります。

 ちなみに、マラキ書の中でエリヤは「契約の天使」と呼ばれています(3:1)。契約は、ヘブライ語でブリット、割礼と同じ言葉です。

 割礼は確かに危険も伴いますが、子供が誕生から成人に育つまでには、それ以上に多くの危険があります。並大抵のことではありません。切実な親たちの、祈りにも似た気持ちが、エリヤの椅子の伝承を生んだのかもしれません。


■成人式「バル・ミツバ」

 

 ユダヤ教において、男児が一人前の成人と認められる年齢は13歳です。人生の最も大切な節目として、子供の成長を家族あげて祝します。

 バルとは、「子」という意味です(ヘブライ語のベンに相当するアラム語)。しかし「子」は子供の子ではなく、ある特色を持った人、あるいは特定の集団に属する人の意味です。ミツバはユダヤ教の律法上の戒律の意味です。ですからバル・ミツバは、ユダヤ教の宗教上の「義務を負う人」という意味で、あらゆるユダヤ成人の男子をさす言葉です。

 バル・ミツバは「おきての子」と訳されたりしますが、この訳は誤解を生みやすいと言えます。なぜなら多くの人は、バル・ミツバを13歳の少年にのみ限定して考えやすいのですが、13歳になってから大人の仲間入りをする、つまり「バル・ミツバ(義務を負う人)になる」というのが正しい言い方だからです。

 ユダヤ教で成人という意味は、宗教的に一人前と扱われるということ、つまり自分の宗教的行為に対して責任を持つ者と見なされるということです。それで、ユダヤ教の会堂での礼拝には最低10人の成人男子(ミニヤンという)の出席が必要ですが、バル・ミツバになるとその1人になることができます。また、会堂でのトーラーの朗読や祝祷の資格も与えられます。

 バル・ミツバとなる少年の家庭では、家族親族あげてお祝いをします。普通、13歳の誕生日を迎えてから安息日を避けて平日、トーラーが朗読される日である月曜、木曜、新月の日などに行なわれますが、それは遠方からの親戚友人を招くのに都合がいいからでしょう。もしあなたがバル・ミツバの式に招かれたとしたら、大変栄誉なことですし、ごく親しい友人に数えられたと言っていいでしょう。

 さて、安息日の会堂では、週毎のトーラー朗読に参加するのは成人男子のみに許された特権ですが、バル・ミツバになった少年はその1人に指名されます。そして、もっとも名誉なことは、その後の預言書の一部(ハフタラ)を朗読する指名をも与えられます(これをマフティルという)。ただし、どの儀式に加わるか、何をするかはいろいろの派や地方で若干の差がありますが。

 一方、父親はトーラーの祝祷に指名されて、「この子の責任から解き放したもうた方(神)に賛美あれ」と祈ります。以後、子供は責任を自覚させられて成長を続けるわけです。

 ところで問題は、ヘブライ語なのです。トーラーやその祝祷はヘブライ語で書かれているので、イスラエル以外に住む子供たちにとっては、バル・ミツバを迎えるために大変な準備が必要のようです。ヘブライ語でトーラーを暗記しなければなりませんから。

 女子の場合、12歳になると、バット・ミツバの儀式が行なわれます。バットは、ヘブライ語で娘の意。

 これは比較的最近の慣習です。女子と男子との差別を解消するために、できたようです。伝統に忠実な正統派の会堂では、バット・ミツバの式は行なわれません。女子は、会堂での礼拝儀式に参加しませんし、12歳になって行なわなければならない戒律もないからです。それだからといって、両親が12歳の娘の誕生日を喜ばないはずはありません。家族あげてバル・ミツバ同様に祝います。


■結婚

 

 他の宗教の中には、聖職者が独身を通すことを求め、結婚生活を俗なものとする考え方があります。しかし、ユダヤ教では結婚の制度を神聖なものとして重んじています。結婚誓約式のことをヘブライ語でキドゥシン(本来「婚約」の意)と言いますが、それはカドシュ(聖)という語源から由来することからも分かります。

 旧約聖書の初めのほうに「生めよ、増えよ、地に満てよ」(創世記1:28)という、神から人類への祝福の言葉が書かれていることは有名です。ユダヤ教の伝統では、結婚こそはこの神様の計画を成就する道だと信じているのです。

 タルムードは、花嫁と花婿と共に喜び祝うためには大切な聖書(トーラー)の勉強すら中断しなさいと命じています。それほど、結婚式を重んじているわけです。

 また、結婚は人が健全な生活を送るために基本的な制度だと見なされています。聖書に「人(アダム)が独りでいるのは良くない。彼の連れを造ろう」(創世記2:18)とあり、タルムードは「妻を持たない男は、喜びなく、祝福なく、幸福なく生きる」とまで言い切っています。


■離婚

 

 世の中には、不幸にして離婚というケースに終わらざるを得ない夫婦がいます。カトリックは離婚を認めない立場を保持していますが、ユダヤ教では離婚を許しています。ただし、夫の側からのみ許されるというのが聖書の規定です(申命記24:1)。

 しかし、離婚を自由に放任しているわけではなく、極力それを回避するよう教えています。

 タルムードの賢者たちは、結婚は聖なる契約であり、結婚の解消は神聖さを汚す行為と見なしました。マラキ書に「主は、あなたとあなたの若いときの妻との間の、契約の証人である。彼女は、あなたの連れ合い、契約によるあなたの妻であるのに、あなたは彼女を裏切った」とあります。これを引用して、「人が妻を離縁するとき、祭壇(神)すら涙を流す」と言っています。

 離婚には、夫が離縁状を書くことを必要とされています(申命記24:1)。その離縁状はゲットと呼ばれ、ラビの前でそれを妻に渡すことによって結婚の契約は解消されることになります。

 妻の側からは離縁状を書くことは許されず、したがって離婚の自由はないことになります。しかし、夫の側に非があってどうしても結婚関係を継続することが妻に耐えがたいケースがあります。ラビが法廷で離婚は妥当と見なす場合、夫にゲットを書くことを強制できます。


■死

 

 ユダヤ人の生活の中のユダヤ教を語るとき、最後はどうしても「死」を避けるわけにはいきません。しかしユダヤ人が死をどのようにとらえているかは、重いテーマであるだけに、本来なら非ユダヤ人である私たちがその説明をするのは適任でありません。

 不十分ながら、葬儀や服喪に関するユダヤ教のしきたりを解説するにとどめます。ただし、ユダヤ教において際立っていることは、悲しみと痛みにある残された者たちへの配慮です。愛する、またかけがえのない人を失った損失に耐えて、精神的に回復し、人生を生き続け、死者への畏敬の念を保ち、故人への記憶を永続するために、伝統的しきたりが見事に工夫されています。

■「死」についての考え方

 創世記の初めに、人間の創造の物語があります。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2:7)という有名な箇所が出てきますが、人間はちりと息より成り立っている、という人間観がここにあります。息のヘブライ語はルーアハと言って、時には「風」とも「霊」とも訳される語です。

 ところで、聖書は人の死については「なんじ、ちりなれば、ちりに帰るべし」(創世記3:19)とふれているだけです。伝道の書は、人の一生をやや虚無的に語っているとも指摘される書ですが、「ちりは、もとのようにちりに帰り、霊はこれを授けた神に帰る」(伝道の書12:7)と創世記の思想を要約しています。

 ユダヤ教は、死を現実の事実として受け入れています。また、キリスト教や仏教のような天国とか来世とかを教理として説きません。この現実に生きる世界に理想の国をつくることを願って、そのために地上での生き方を教えています。メシアが地上に現れ、地上がメシアの国になる日を祈っていますが、時間的に未来の事であって、あくまでこの世において実現するとしているのです。

 しかし、死と共に人間の尊厳が終わるとも、ユダヤ人は考えていないようです。旧約聖書には来世の明白な意識は表れていませんが、死者を丁重に畏敬の念をもって扱っています。族長のアブラハムやヤコブ、ヨセフの物語からもそれが推察されます。

 第二神殿時代(紀元前539年~紀元70年)において、メシア待望の信仰がひろまると、メシアが来るとき一緒に復活するとの希望から、エルサレムに埋葬されることを熱心なユダヤ教徒は願うようになりました。来世思想の芽生えです。しかし、人は死んでから次の世界に復活するというキリスト教的来世観とは、ニュアンスが違うようです。

 それぞれの宗教における死に対する考え方は、逆説的に、生きている者が何をなすかの慣習を通してうかがえるとも言えます。ユダヤ教の場合、歴史を通してラビたちの知恵が結集され、死者への畏敬と遺族への慰めのための律法が数々定められました。