「ミルトス友の会」第2回集い

2005年10月10日(於:アピオ大阪) エリ・コーヘン駐日イスラエル大使講演

武士道精神と立ち帰りの日々


駐日イスラエル大使 エリ・コーヘン


■魂の精算

  本日は、ユダヤの暦で「十日間の立ち帰りの日々」の七日目に当たります。これは新年の第一日目から十日間続き、その十日目にはユダヤ教で最も大切で厳粛な日である大贖罪日を迎えます。
  この十日の間、人は各々「魂の精算(ヘシュボン・ネフェッシュ)」と言われる自己点検をします。自分がこの一年を通して行なった行ないは、何が良くて何が悪かったのか。そして今後どうやって自分の言動を改善していくことができるのか、一つ一つ点検していくわけです。

  点検するのに二つのポイントがあります。一つ目は人間と神の関係。そして二つ目は人と人との関係、すなわち自分と家族、職場の人間、また一年間で出会った様々な人との関係です。この人との関係において、もし何か悪いことをしたと心から反省して謝罪するなら、神はそれを許してくださると言われています。しかし一方、友に対して悪いことをして謝ったけれども、友が許してくれない場合、それは許されないとも言われます。謝罪の心だけでは十分でなく、相手が許してくれるということが必要なのです。
  私たちは自分がしてしまった悪いことに対して許しを請いますが、他方で自分に対してされた悪いことに関して、自分はそれを許します、とも祈ります。そして来る年には、より聡明な、信心深い人間となることを願いつつ、新しい年がスタートするのです。

■角笛を吹く意味

  ユダヤ教では、神に祈る手段の一つとして、角笛を吹く伝統があります。なぜ角笛を吹くことが祈りとなるのかについては、様々な注解がありますが、その一つは雄羊に関係しています。角笛は、雄羊の角から作られています。これは、アブラハムがイサクを燔祭に捧げようとした物語、すなわち創世記二二章に関連しています。
  この「イサクの燔祭」の物語は、非常に難解な箇所です。老齢のアブラハムとサラの間に、奇跡的に授かった一人の子供がイサクでした。しかし、神はその子を捧げよと言われる。これは非常に残酷で、理解しがたいことです。しかし、アブラハムはまったく躊躇しませんでした。彼の神への信仰は完全でした。九九・九九九九……%ではなく、一〇〇%の信仰が彼にはあったからです。それは息子イサクにも同様でした。

  その後、イサクに手を掛けようとしているアブラハムの手を天使が遮り、代わりに捧げるように言われたのが、藪にひっかかっていた雄羊でした。
  私たちは、アブラハムのように強くかつ偉大で、完全な信仰を持っているわけではありません。しかし、その弱い私たちが、息子さえも惜しまない父祖アブラハムの信仰を記憶し、私たちを顧みて憐れんでください、と神に祈るのです。この角笛は、アブラハムと神との深い関係の象徴なのです。「四千年前に起きたことを、私たちはまだ忘れていません。どうか私たちを憐れんで、天から見守ってください」という意味を込めて、この角笛を吹くのです。
  祈りとは、神のためにするものではありません。それは私たち人間のためなのです。この角笛を吹くとき、私たちがアブラハムとイサクの話を思い出します。そして、私たちはその話の深い意味を理解し、より信心深い人間になることができます。

  では、私が実際に角笛を吹いてみましょう。

角笛を吹くコーヘン大使

(大使が角笛を吹き、拍手が起こる)

  そしてこの角笛を吹いた後に、天が開かれ私たちの祈りが受け入れられるように、との祈りを捧げます。
  私たちは、新年の期間中に二つの挨拶をします。一つは「あなたの名が『命の書』に記されるように」というもの。そしてもう一つは、十日目、すなわち大贖罪日に「あなたの良き名を、神が封印してくださるように」といいます。すなわちこの十日間は、私たちが裁判の法廷に立たされて、許しを請いつつ神に祈り続けているような期間なのです。その祈りが神に受け入れられたならば、最終日である大贖罪日に良い判決が下され、無事に封印されるわけです。

■ユダヤ史上の「切腹」

  武士道とユダヤ魂について、以前にもお話しましたが、今回は別の観点から取り上げてみましょう。
  日本の武道はいつ頃始まったのでしょうか。あまり明確にはわかっていませんが、一般的には、サムライが出現した十二世紀頃だろうと言われています(注・鎌倉幕府のこと)。しかし、いわゆる「戦闘集団」の存在は、それよりもっと前、今から二千年以上前の「神代」の時代にもありました。この闘う者たちの武士道精神は、数千年にわたって、それぞれの時代において、日本の歴史に影響を与え続けてきました。

  この精神は、ユダヤの精神と非常に近しい関係にあると、私は感じています。その接点にあるのが「切腹」です。ユダヤ教は、神から与えられた命を自ら絶つということは、宗教上認めていません。しかし、興味深いことに、ユダヤの歴史上では自らの命を絶たざるを得ない状況が多々あり、そしてそれが、ユダヤ教の観点から完全に認められ、受け入れられている事実があるのです。
  それは二千年から四千年前の故事ですので、まだ日本ではサムライ自体が存在しなかったときの話です。これらは聖書に書かれている故事ですから、ひょっとしたらそれが日本に伝わってきたのかも知れないですし、また偶然同じような状況下で、同じような精神を持ったこの二つの民が、同じような振る舞いをしただけのことかもしれません。

  では、ユダヤ史上で実際に「切腹」を実行した一人目の例を挙げてみましょう。それはサムエル記に登場する有名な人物、サウル王です。サウルは、ペリシテ人との最後の戦いで絶体絶命の状況に陥り、捕虜になるよりは自らの命を絶つ道を選びました。彼は剣を取ってその上に倒れ伏しました。しかしそれだけでは息が絶えませんでしたので、その後そこに偶然やってきたアマレク人にとどめを刺すように願います。これは切腹後に介錯をするのに似ています。
  自らの命を絶つことを基本的に認めないのがユダヤ教であると言いましたが、このサウルの行ないは正しいことだったとユダヤ教の中では理解されています。ここで捕らえられて捕虜になっていれば、イスラエル王の尊厳は地に落ちてしまいます。その上に、捕らえられた王がどのような苦しい目に逢わされるかは、その他の聖書の箇所に載っているとおりです。ユダヤ教の中では、むしろ勇敢な行為の代名詞として引き合いに出されるほどの行ないが、このサウルの死だったのです。

  そして二人目は、サウルより約百年前の士師の時代に活躍したサムソンです。彼は力を失って捕らえられ、目をえぐり取られて捕虜にされてしまいます。しかしその最期、神に力を与えてくださるように願い、力に満たされます。そして、柱に寄りかかって建物を倒壊させ、多数のペリシテ人と共に死んでいきました。神はここで力を与えてしまうと、彼がどういう行為に出るかは分かっていたはずです。けれども、神はあえてサムソンに力を与えられたことを見ても、この自殺行為に許可を与えたということになるのではないでしょうか。

  三人目は、あまり知られていませんが、ハスモン王朝時代の人物、エレアザル・マカビーです。紀元前一六四年、マカビー一族が蜂起してギリシアの勢力を追い払った、マカビーの乱という事件がありました。私たちは、この勝利を記念して、今でもハヌカ(宮潔めの祭り)を祝います。
  この反乱はギリシア軍の物量の前に苦戦を強いられた戦いで、ユダヤ軍はゲリラ戦法で対抗していました。そしてある時、モディインという場所で大激戦となります。ギリシア軍は当時の「戦車」である象や馬、また武器を豊富に持っていました。それに対してユダヤ軍が持っていたのは、せいぜい刀と槍ぐらい。当然、戦況は徐々にユダヤ軍に不利になっていきます。その状況を打開するため、エレアザルは自殺行為に出ます。自分の命を代償に、この情勢を変えようとしたのです。

  彼は何をしたか。彼は槍一つ持って前戦に飛び出します。目前には綺麗に飾られた象が一頭。これこそギリシア軍の大将が乗っている 象だと思い、ギリシア兵士を蹴散らして一目散に象に向かって突進しました。そしてゾウの懐に入り込み、その腹に思い切り槍を突き刺したのです。ゾウは上に乗っていた人物もろとも倒れ込み、エレアザルはその下敷きとなって死にました。結果的にこの象は、大将が乗っていた象ではなかったのですが、エレアザルという人は、自分の命に代えてこういう勇敢な行為をしました。
  これは、戦況好転の望みが薄い、しかし自らの命を捧げることによって、戦局を変えることができるかもしれない、という点において、まさに日本のカミカゼと同じ行為です。

  そして最後の例は、今から約二千年前のマサダです。彼らは最後まで戦い通しましたが、敗北が目前となったとき、ローマ軍の捕虜になるよりは、自らの命と家族の命をも絶つ道を選びました。これも、ユダヤ教の観点から認めらた行為とされています。
  これらの例を見てわかるように、自らの命を絶つということは、戦闘という特殊な状況下において、ユダヤ教では許されているのです。国のため、また大いなるもののために自らを犠牲にし、また自らの尊厳を守るために命を絶つということは、勇敢な行為として賞賛の対象ですらあるのです。

■ヤコブと天使の「組み手」

  日本の武道は、多くのイスラエル人家庭に浸透しています。イスラエルの各地に、空手や柔道などの武道教室があるほどです。なぜ武道 がイスラエルで急速に広まっていったのか。その理由は、お互いの深層意識の中にあるものが共通しているからではないか、また伝統という共通の基盤に立っているからではないかと、私は思うに至りました。

  武道において、ある一つの動作を、無意識のうちに行なえるほどに会得するには、数万回の稽古を要します。最近のスポーツ科学の研究で、この「無意識の動作」に至るには、三万回の反復動作を要する、という実験結果が出ました。初心者は、なぜ同じ動きを、何度も何度も「一、二、三、……」と繰り返さねばならないのか、最初は理解に苦しみます。しかし、これは技術的なことにとどまらず、精神的な要因が含まれています。繰り返し繰り返し反復することをとおして、武道の精神が自分の一部になるのです。このことがわかるならば、稽古というのは一生続けるものであることを悟るでしょう。
  高い域に達した武道家は、いつでも準備ができているので、普段から肩の力が抜けていて非常に穏やかです。いつも構えている必要はありません。どのような状況の変化にも、精神的に肉体的に対応できるからです。

  このことが、どうユダヤ教に結びつくのでしょうか。
  私たちの父祖の一人に、ヤコブという人物がいました。創世記三二章には、ヤコブがエサウと再会する前に、ヤボクの渡しで天使と出会った件があります。そして「夜明けまでヤコブと格闘した」と書いてありますが、この天使が誰なのか、なぜ突然に格闘せねばならなかったのかということには、聖書は一切触れていません。非常に疑問の残る箇所の一つですね。

  ヤコブは私たちと同じ人間でした。人の子の父で、羊飼いだった、そんな人間が、どうやって神から遣わされた天使と互角に闘うことができたのか。ヤコブには、天使と同じような精神エネルギーがあったのでしょう。その精神的なパワーが、物理的な「組み手」となって互いにぶつかり合いました。その組み手が柔道なのか空手なのかはわかりませんが、一晩中、肉体と肉体の格闘が繰り広げられたのです。
  そして最後には天使が「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とヤコブに願い出るのですが、ヤコブは「いいえ、祝福してくださるまでは離しません」と言います。

  私たちは、聖書のすべての記述には、必ず理由があると信じています。このヤコブの故事には、後代へのメッセージが含まれているのです。それは、ヤコブは天使との格闘で負傷もしたけれども勝利した。ヤコブは勝利を得たのですから、何でも願えば手に入れることができたかもしれません。しかし、彼が望んだことは神からの祝福でした。ヤコブは闘いの末、調和と平和を願ったのです。それがたとえ憎い敵だったとしても、最後には平和を求める。これがこのヤコブの物語が私たちに伝えたいメッセージなのです。

  天使はヤコブに言いました。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ」。私たちの民族は「イスラエル」と呼ばれ、自分たちのことを「ベネー・イスラエル(イスラエルの子ら)」と呼びます。ヤコブ、すなわち神と闘った人の子ら、という意味です。ですから、イスラエル人として生まれてくる者には、本人が意識しようがしまいが、闘う精神が備わっているのです。軍隊などの実際の戦闘のみならず、文学、芸術、音楽などの分野であっても、この精神を内に持つ戦闘員であるということなのです。潜在意識の中に、闘う精神が仕込まれているからです。そして、それが物理的な戦いであれ、精神的な戦いであれ、この潜在能力が最後には平和や調和を生み出す力なのです。

■武士道精神と立ち帰りの日々

  日本の武士道における哲学では、偉大な武道家は闘う必要がない、と言います。そして最大の難敵は、単に強い相手ではなく、自分の手の内を見抜いてしまう人である、と言われます。自分の行動が、すべて相手に読まれており、不意打ちができないからです。ですから、稽古では相手に感情移入して相手の心を読み、相手を征服していく訓練をします。
  この域にまで達すると、自分が相手になりきってしまうわけですから、敵を愛するということが可能になります。相手を愛するが故に、相手の挙動を読むことができるからです。そして敵を愛しているのなら、その相手を傷つけようとは思いません。道場では、激しく稽古した者同士が、稽古の後に一緒に飲みに行ったりして、一つの家族のように仲良くしているのをよく見かけることからもわかります。

  この武道の精神は、最初にお話しした「十日間の立ち帰りの日々」の精神に非常によく似ています。前述のとおり、この期間中に自分の友人たちに許しを請い、お互い調和のある関係でありたいと願う点。そして、これが毎年毎年、何度も何度も深層意識に染みこむまで繰り返されるという点において、武道の精神と同じです。

  ユダヤ教ではトーラー(聖書)のことを「枯れることのない泉」と表現したりします。トーラーは無尽蔵に湧き出てくる水であり、その泉から一生学び続ける。学び得ることは無限であり、またそこから受ける影響も無限です。私が本日お話ししたことは、すべて聖書に書かれていることです。私が自分で何かを作り出したわけではありません。私たちに必要なことは、このトーラーのメッセージを見出す直覚力を持ち、そしてそのメッセージを取り出して光にあてることなのです。
  次にお目にかかる機会がありましたら、きっと私はまた違うトーラーのメッセージをもって、皆様の前でお話しできるでしょう。

講演後の質疑応答も活発に
【講演後の質疑応答も活発に】

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