「ミルトス友の会」前島誠氏 記念講演

2007年2月20日 前島誠氏 記念講演(於:ベルサール九段)

イエスの心に息吹いたもの


 長年にわたり「みるとす」にご寄稿いただきました前島誠先生に、ご講演いただいた内容の一部を抜粋してご紹介いたします。

●人は正しくない

  今日は、イエスの心に何があったかということを、私なりの切り口で申し上げたいと思います。言いたいことはたくさんあるのですが、聖書の中で非常に要約された箇所がありますので、お読みします。

  イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」
  イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」
  すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
  イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」
(マルコ一〇・一七~二二)

  まずイエスが言ったのは「神おひとりの他に正しい者はいない、善い者はいない」ということでした。この原典は、伝道の書(コヘレトの言葉)七章「善のみ行なって罪を犯さないような人間は、この地上にはいない」で、イエスはこれを引用したと思われます。
  しかし、私たちはこの句を意外と理解していないのだと思います。「私の言うことは間違っていない、絶対に正しい」と思ってる人間が意外に多い。私自身を見てそう思うんです。しかし、人間ですからどこか間違ってるはずなんですね。「もしかしたら、自分が間違っているんじゃないか」この意識が大事だと私は思うんです。「人間はどこか間違ってる」。この最も大事な出発点に関して、イエスは一番最初に釘を刺されたのでしょう。

  この話をある学校の先生方の集まりでしたんです。しばらくしたらお礼状が来ました。その中に「今まで頂いた話の中で一番良かった。なぜなら職員会議が非常に活発になった」と書いてありました。日本の習慣として、会議で自分と違う主張をした相手が上司だと、何も反論できなくなります。しかしそこでは「皆間違っている」と全員が認識したから違う意見がどんどん出て、言いたいことが言えて皆スッキリしたというんです。

  私は去年の夏、自分の墓を建てました。その墓に何と書いたか。墓碑銘はこれだけです(黒板にヘブライ語の「ベート」の文字を貼る)。で、この下に「前島」と書いて、それで終わり。なんでこれを付けたかというと、この墓の前を通った人が「変な模様が付いてるけどなんだろう、これ?」と言って立ち止まるのを、墓の中から「あっ、また来たな」って楽しみたいんですね(笑)。
  これはヘブライ語アルファベットの第二番目で「家」の形象文字なんです。きっと上から見た「家」の形なんでしょう。この「ベート」に関していろいろなおもしろい解釈があります。ヘブライ語は右から左に書きますから、右は過去で左は未来、そして上と下がふさがっている。つまり「お前の人生は未来にだけ開かれてる。だから上を見たり下を見下ろすな。また、後ろを振り向くな。それが、あなたの人生である」と。

  ここにタルムードがあります。最初の頁を見ますと、ここに「ベート」と書いてあります。これが頁数なんです。第二頁。つまり、タルムードの第一頁は存在しないんです。なぜか? 一頁目はお前には隠されているということなんです。たとえ万巻の書を読んですべてを会得したとしても、お前には一頁目は永久に示されていない。うぬぼれるな、ということですね。ですから自戒をこめて墓の石にこれを刻みました。

ベートの文字を示す前島氏
【ベートの文字を示す前島氏】

●両親を重くすること

  次にイエスは、十戒の第六戒から十戒までの後半五つの条文を言われ、そして第五戒「敬え。お前の父を、そしてお前の母を」と続けられました。十戒というのは一~五戒が神に関する掟、六~十戒が人間に関する掟です。では、なぜ五番目の「父母を敬え」が、神に関する掟なのでしょう。どうして人間の掟にならないのか。それは、トーラーを最初に教えるのが、父親だからです。そして、人間が最も対人関係で大事にしなきゃならないものが親である。父母を大事にすることは、すなわち神の言葉を伝えた人、自分に命を与えた人を大事にすることだから神を大事にすることにつながる。だから神に関する掟となってるわけですね。

  この「敬う」というのは原文で「カベッド(重くせよ)」と書いてあります。どうしてこれが「敬う」という意味になるんでしょう。どうすれば父母を重くすることができるのでしょうか。私が学生時代に学んだドイツ人の先生が、「これは子供に与えられたものではない。これは大人に与えられた掟である。自分の体重よりも親が軽くなった時、その時からこそ親を敬わなければならない」と言っていました。すなわち、親の体重のことを言っているわけです。
  では具体的に「父母を重くする」にはどうしたらよいか。それは簡単です。体重を重くするには食べさせればいいんです。しかし、食べさせるといっても本人はあまり食べられません。私も七十三歳になりましたが、そう食べられない。

  母がまだ元気で生きていましたとき、旧友の井上洋治が家に泊まりに来ました。彼もそう食べられないと思って、私はなるべく柔らかいステーキを買ってきて皆で食べました。食べ終わって二階に上がり、彼と二人きりになったとき、彼はこう言いました。
 「お前って気がきかねえなぁ。あんな物をお母さんに食べさせるのか?」
 「えっ? ちゃんと食べたじゃねえか――うまい、うまいって」
 「そりゃお前に気遣ってんだ。必死で呑み込んでんだ、あれは。あんな物を食わせるようじゃお前はダメだ」。その時は「そうかな」と思いましたが、今にして自分がそうなってきますと、よくわかります。

  私は大変、親不孝な息子でした。母は平成元年に八十八歳で亡くなりました。明治、大正、昭和、平成と四つの時代を生きた母でした。霊安室まで担架で運ばれてきたとき、私は看護婦さんに言いました。
 「私にベットに移させてください」
 「どうぞ」
  力一杯グイと持ち上げようとしたら、軽いこと軽いこと。「なんだ、これは!?」力も何にも要らない。そのときに私は、この第五の掟を思い出したんです。「母を重くせよ」と。
 「冗談じゃない、オレは一体何をやってたんだろう」。そう思いました。母を持ち上げたとき、簡単にいえば悲しかったですね。私はこの掟を全然やってこなかった。

●本当のツェダカーとは

  イエスが最後に言われたのは「行け! 持ち物を売り払って、貧しい人に与えよ」ということでした。「私はすべて掟を守っております」と言った若者に対して、イエスが最後に言った言葉でした。この若者の話は、教会の説教では駄目な人間の例として出てきますが、私はそうは思いません。このセリフの前に「イエスは少年を見つめて彼を愛した(直訳)」と書いてある。つまり、イエスはこの少年を気に入ったんでしょう。そして「お前には、たった一つしか欠けたところがないんだ。すばらしいヤツだ、お前は」と褒めたくてこう言ったんです。
  それにしても「行け! 持ち物を全部売ってしまって、貧しい人に施してこい!」というのは、ちょっと過激な発言ですね。あのパリサイ派ですら、自分の物を与えるには五分の一、つまり二十パーセントまでが限度だと言っているほどですから。

  「施し」とは、ヘブライ語で「ツェダカー」です。この言葉は、聖書の中で一つのキーワードだと私は思っています。日本語では「善行、善い行ない」などと訳されておりますが、それは誤訳に近い。イエスは「行って来い! とにかく行け! そして与えよ」と言っただけです。それが善い行ないだからやれ、と言ったわけではなく、単なる行ないとしてやれ、というのです。施しとは、何にも考えないでやること、無心にやること、それでないと意味がありません。
  施しというのは善行ではない。ツェダカーとは、後に抽象名詞としての「正義」という意味が加わりますが、これはまた「義務」の意味なんです。例えば私がここに二本のペンを持っているとします。そこに、向こうから一本も持っていない人間が来たら、何も考えずに一本出す。こういうことなんです。二本持つ者が、ゼロ本の者に一本与えれば一対一となる。これが「正義」であるというのが、聖書の言葉の大事なところです。(後略)

講演会の後、イスラエルワインを片手に懇親会(その1)

【講演会の後、イスラエルワインを片手に懇親会】

講演会の後、イスラエルワインを片手に懇親会(その2)

Eメール:pub@myrtos.co.jp
TEL:03-3288-2200 / FAX:03-3288-2225(「ミルトス友の会」係まで)